Phil Hardison

Phie Hardison

「生粋のクズがブログを書くとこうなる」というのがよく分かるブログを目指しています!

間違いを正すことは本当に善いことなのか

 

 

 

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▼はじめに

 

ブログを3年ほど続けています。

最初は仕事の愚痴から始まり、人にこういうこと言われて嫌だったという愚痴、世の中にこんな馬鹿がいるなんて信じられないという愚痴、まあ3年間ほぼ愚痴ってしかこなかったのですが、ありがたいことにヘイターやアンチの数が順調に伸びるにつれて私自身がどんどんmatureになっていく(大人になっていく)のを自分自身で感じております。

確かにまだまだimmature(未熟)ではありますが、それでも着実に、どこまで無視してどれだけ自分の時間を無駄にせずに過ごすか、というところを今は常に考えることができるようになりました。

 

さて、タイトルの『間違いを正すことは本当に善いことなのか』ですが、私は近頃文字通りの疑問をずっと持っていまして、今回はそれについての独り言です。

 

▼「ワンピース読んでないとか人生損してる」と簡単に言う人

 

簡単な例をいくつか出してみましょう。

 

「え、おまえワンピース読んだことないの?人生半分以上損してるわ~」

 

これ、ワンピースを読んだことがない人は一度は言われているのではないでしょうか?こういうことを言う人というのは、ワンピースを読んで来なかった人たちはこれまで誤っていて、それを正そうとしているのだろうと思います。つまり、こういう人は良かれと思ってワンピースを読んだことがない人に親切にアドバイスをしてくれている訳です。

 

しかし、ここで浮き彫りになる問題が、「いやだから興味ねーし」です。

そうなんです。めちゃくちゃ根本的に、興味ないもんをわざわざ手に取るなんていうのはめんどくささの極み。そしてそれを「人生損してる」などと言って押し付けてくる人ほど鬱陶しい人たちはいません。

 

別に好きな作品やものを勧めるなと言っているのではありません。「人生損している」というのが、あなたの尺度でしかないですよ、というお話です。

好きな作品をおすすめするなら「これがおすすめだよ、こういう感動的な話もあれば、コメディータッチで面白い部分もあるし、伏線回収も見事で・・・」と勧め方はある訳ですから。

 

 

▼お互いの尺度や物差しを意識し尊重しあう

 

とにもかくにもこのように、「自分が面白いと思うものは世界中の全ての人間が面白いと思うべき」「自分が正しいと思うことは世界中のみんなも正しいと思っているべき」という考えでいる人はたくさんいると思います。

私もそのひとりです。

 

というのも「え・・・いや普通に考えて違うだろ・・・」「こいつ何言ってんのきしょい・・・」と本能的に思ってしまうことがあるからです。もちろんこういう言葉を口に出して言う時は相当失礼なことを言われた時くらいで、普段は言わないように心がけてはいます。

けれど「違うだろ」「何言ってんだおまえ」と思ってしまうのは確かなのです。これはつまり、「私の正誤の基準からすればおまえの言っていることは違う」「他の人には分かる話でも私には理解できないし不快」ということです。

これを「おまえさ、どう考えても今の失礼だろ」なんて言っても、それは自分の尺度であって、相手は自身の尺度では失礼ではなかったから言ったことなので「お前の尺度知らねえわ」とぶつかってしまうのだと思います。こういう人たちを本当にたくさん目にします(特にインターネット上で匿名性を最大限に活かしている人たち)。

 

こういう言葉を使うとネガティブにとらえられるかもしれませんが、お互いにある程度の妥協が必要だと個人的には考えています。妥協というのは自分が負けを認めることではありません。自分も一歩下がる条件で相手にも一歩下がってもらう、そして衝突を避けるといういたって合理的な行為です。

 

ワンピースの例えで言えばこんな感じでしょうか。

 

A「ワンピース読んでないの?おまえ人生半分以上損してるわ」

B「Aにとってはワンピースを読まないことは人生を半分以上損していることになるかもしれないけれど、それが私に適用されるかどうかはあなたには分からないよね?私はそういう言われ方をするのは好きではないから、普通に勧めてくれた方がもっと作品に対して好意的に興味を持てるかな」

 

こういう具合に、相手の尺度と自分の尺度が違うということをはっきり理解させ、それをお互いに尊重しましょう、ということを提案することでもっと世界が平和になる気がします。

 

ここまではワンピースで例えて来ましたが、人間関係というもう少し重めの例えでも説明したいと思います。

 

 

 

▼「そんなやつ絶対別れな!!」という人

 

A「彼氏に浮気されちゃって・・・どうしようかと思ったんだけど・・・」

B「ありえないんだけど!絶対別れなよそんな男!」

A「でも長く付き合ってるし、同棲してるし、トラブルになるくらいなら別れずに一緒にいたいなって・・・つらいけど・・・」

B「そんなんで本当にいいの!?Aちゃんにつらい思いさせる男なんかのために時間無駄にするつもり!?」

 

こういう話、これを読んでいるあなたもどこかで一度聞いたことがあるかもしれません。この場合、Aは悩みながらもこのまま交際を続けることを打ち明けていますが、Bはそれが納得いきません。

交際について相談されている側の反応として、Bの反応はかなり一般的かなとは思いますが、これではAはもっと悩んでしまうかもしれませんし、Bも不要な苛立ちを持ち続けることになってしまいます。

それではどうするのが理想なのか。

 

A「彼氏に浮気されちゃって・・・どうしようかと思ったんだけど・・・」

B「マジか・・・私だったら絶対に別れるなあ・・・」

A「でも長く付き合ってるし、同棲してるし、トラブルになるくらいなら別れずに一緒にいたいなって・・・つらいけど・・・」

B「そっか・・・私個人的にはAちゃんにそんなつらい思いさせる男がAちゃんの貴重な時間を奪ってAちゃんの心を傷つけてるのは許せないけど・・・Aちゃんが思う最善策と私の思う最善策は違うから、応援してるね。ただ、ほんと何かあったらいつでも話聞くからね」

 

こういう感じが最も平和なのではないでしょうか?例えAの判断が間違っていることがBにとって確かだったのしても、それはあくまでBの尺度で間違いなのが確かなのであって、Aにとってそれが確かかどうかという保証はどこにもないのです。

 

 

▼『尺度や物差しの尊重』という哲学

 

地雷なんてものは人それぞれ違いますし、それぞれ善悪の尺度も違います。だからこそ、自分の物差しで人をはかって勝手にアドバイスしたり、暴言を吐いたり、という行為がとても稚拙な行為のようにと思えるのです。

 

つまり、間違いを正さなくては、と思っているその「間違い」は自分の尺度における間違いであるということに気が付いていない人が実は多いのでは・・・?と思うのです。

 

19世紀のアイルランド人作家(詩人)Oscar Wildeは『It is absurd to devide people into good and bad, people are either charming or tedious』という言葉を残しています。

『人を善人か悪人かで分けるのは愚かだ。人は魅力的な人間かつまらない人間かのどちらかでしかない』と意訳できます。

「あんた間違ってるよ」という言葉を出す前に、相手の尺度についてよく聞いてから発言をしたいものです。

 

 

とっても重要なことですが、この記事も、いえ、私の発信するすべてのものが私の尺度を基準にしているということです。そして、私は私の物差ししか持っていません。それはすべての人がそうです。すべての人が、ひとりひとり違う物差しを持っています。

「そんなわけない。みんな共通の尺度だって持ってるはずだ」そうですね。そしてその考えもあなたの尺度でしかありません。そしてその考えがあなたの尺度でしかないという私の考えも私の尺度でしかないわけです。

 

さて、この哲学にどっぷり浸かっていただけましたでしょうか・・・?言いたいことを言えない世の中にはしなくていい。ただ、間違いを正すという行為は、そのレベルによっては本当にただの時間の無駄になりえるということを私は身をもって学んだので、切り捨てるやり取りの選び方が分かってきたよ、というひとりごとでした。

 

 

 

 

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