私はなぜFacebookのプロフィール写真をパリ仕様に変えないのか
私の友人が上記のリンクをFBでシェアしていたので、触発されて私も書くことにしました。本当はベガス1日目クソ楽しいよ、っていう記事を書こうかと思ってたんですけど、こういうことがある度に「私がおかしいのか?」と思っていたのは事実なので、このタイミングで書いておこうと思います。
この2日間、FBのタイムラインには「◯◯さんがプロフィール画像を変更しました」というお知らせとともに、青白赤のトリコロールがあふれています。そして「パリ市民の安全と平和を願うプロフィール写真を設定しよう」と。
・・・は?
ちょ、ちょっとごめんなさい、ん?パリ市民の?安全と平和を、願う?プロフィール写真?を設定・・・は?
まずい、私は相当日本語力が低いようだ。世界中の「友人ら」がみんな揃ってプロフィール写真をパリ仕様に変えているのに、私はその推奨文を理解すらできない・・・!
私は人がプロフィール写真をパリ仕様(あえてフランス仕様と言ってません)に変えることに対してどうのこうのいっている訳ではありません。そんなの人の勝手なので私がどうこう思う領域じゃないからです。プロフィール写真を変えることがその人たちにとってパリ同時多発テロの被害者たちに対する追悼やらなんやらを意味すると言うのなら、それでいいんじゃないでしょうか。
プロフィール写真を変えないのであれば、私に何ができるのか?私には、何もできません。私はISISの母体に乗り込んでテロリストを皆殺しにすることなんてできないし、彼らの夢に現れて天使のように諭すこともできないし、過去に戻って人々に警告することも出来ません。
でもただひとつ確かなことがあります。私は世界中で起きているテロや虐殺行為を、FBのプロフィール写真を変えるという流行に乗るごときで昇華したくない。
「祈り」だとか「願い」だとかいう言葉は、私にとって抽象的すぎる。私にとってそれらは、何もしないこと以下の行為です。なぜなら、私自身が、祈ったり願ったりする行為自体を理解していないから。理解してもいないことをして、上辺だけでちょろちょろっとなんかやってポエム書いて終わり、なんてことを私はしたくない。
虐殺された人々に対して追悼の意を表することは、流行していいものではないと思っています。でも実際に、それが今「流行している」ことに対して私は気味の悪さを覚えています。
私には何もできない。そして私は自分の脳で理解できないことはしない。重ねて言いますが、私は人がプロフィール写真をどう変えようが知ったこっちゃありません。勝手にすればいい。彼らは彼らなりに理解した上でそうしているのだろうから。
ただ、私はしない。それだけです。
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